3、脱走
「・・・・・着いたぞ」
地面に降りても うでの中で動こうとしない女に向かって、クラトスは一人言のようにつぶやいた。
かすかに身動きした女は、警戒(けいかい)しているのか、すぐには顔を上げないで、 用心深く、周りの気配を探っているようだった。
(脱走者・・・・・か)
クラトスは、女の服を見た時から気づいていた。よごれてボロボロになった、服とよべない布。 若い女が好んで身にまとうはずはない。これまでに何度か同じ身なりの人間を見たことがあったが、 どの人間もみな、大空の下にいることをおそれ、おびえていた。
にげているのなら早く行かせた方が良い。そう思ったクラトスは、静かに口を開いた。
「・・・・・この谷には、まだ、私たちしかいない。しかし、早く行かぬと、 あと半刻もすれば どうなるか分からんぞ。人の気配が近づいている」
「本当!?」
ごく自然に、女がこたえた。
顔を上げた女は、顔色が悪くやつれていたが、とても美しい顔立ちをしていた。 年のころは20才を少し過ぎたころか。むじゃきな表情をしているが、 その瞳は力強くかがやいて、まっすぐクラトスへ向けられていた。
(・・・・・?)
つられて見つめ返したクラトスは、ふと、どこかで、同じ瞳を見たことがあるような気がしてまばたいた。 強い意思をこめた、まっすぐなまなざし・・・・・。どこかで見た、なつかしいかがやき・・・・・。
遠い、暗い記憶のかなたで、何かがざわりとゆらめいた。
しかし、クラトスが何かを思い出すよりも早く、ほほにふれた女の指が意識をうばった。
「・・・・・!?」
クラトスがおどろいて目をやると、そこには、花がさきこぼれるような笑顔があった。
「命を助けてくれて、ありがとう」
そう言って、女は、まるで当たり前といわんばかりのなれた様子でキスをした。彼の、くちびるに。
「あなたも、ありがと♪」
女は、さっと身をひるがえして、彼の友であるけものにも口づけると、にこりと笑って言った。
「じゃあ、わたし、行くわね。追って来るのはディザイアンなの。あなたたちも、 今すぐここからはなれて! あと、わたしに会ったことは忘れてね!」
それだけ言うと、女は、そのまま ふり返らずにかけて行った。
「・・・・・クラトス。だいじょうぶ?」
すでに女が見えなくなっても、ぼうぜんとその場に立ちつくしている友を気づかってか、 白いけものが長い鼻をすりよせた。
「・・・・・ルインでは、礼を表すのに、くちびるに口づけするというが・・・・・・・・・・」
まだ信じられないといった面持ちでクラトスがつぶやく。
その様子を見ていた白いけものが、首をかしげてたずねた。
「ねえ。追いかけなくていいの?口と口をくっつけるのは 「ケッコン」 ってコトでしょ?」
「ノイシュ。それは、私の国での話だ。・・・・・ここでは、ちがう」
返ってきた低い声には怒りがふくまれているようだったが、 ノイシュとよばれた白いけものはまったく気にする様子もなく、今度は、反対側に首をかしげて言った。
「でも、クラトスはケッコンしたんでしょ?だって、口をくっつけたじゃない。 早くしないと、おヨメさん、にげちゃうよ?」
「お前は・・・・・どうして、いつも人の話を聞かんのだ?」
クラトスはしぶい顔をすると、ひたいに手をあてて、やれやれとため息をついた。
・・・・・と、その時。
ノイシュとクラトスが同時にぴくりと体を動かした。二人の視線が、ぴたりと同じ場所に集まる。
そこは、はるか高く切りたったがけの上だった。女は、そこから飛び降りたのだろう。
風に乗って、鉄がこすれる音や、たくさんの足音が聞こえてくる。クラトスには分からないが、 ノイシュには、がけの上からただよってくる血のにおいも はっきりかいでとれた。
「来た!・・・・・いっぱいいるよ!」
「・・・・・・・追っ手か。・・・・・・・やれやれ。今からでは、にげても間に合わんな・・・・・・・」
クラトスは、少しも困っていない様子でかたをすくめると、 右手を剣にかけ、がけの上に新たな影が現れるのを待った。
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アンナと父様-長いお話『アンナ〜出会い』 |