8、
それから、どれぐらい時間が経ったのだろう。クラトスは草原に横たわり、ただ、瞳を閉じていた。
考えることはなかった。もはや、アンナにしてやれることは何もないと知ったからだ。
アンナは、小さな体を縮めて泣いていた。いつの間にか星空は消え、暗い草原に、静かに雨が 降り続いていた。
しめった雨音に、アンナの渇いたすすり泣きが吸いこまれて消えていく。 いつまでも、いつまでも・・・・・・・・
そして、やがてはそれも止み、気がつくと、クラトスの耳に響くのは、しんしんと 草を打つ雨音だけとなった。
ザザ・・・・・
ふいに、アンナの気配が動いた。
逃げるなら捕まえなければ。クラトスはそう考えたが、ガサガサと動く音は その場から移動せず、少しして ふわりと雨が止んだと思ったら、次に、大つぶの水がボトボトと 顔に降って来た。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
クラトスが目を開けると、目と鼻の先にアンナの顔があった。アンナは、 頭の上でローブを広げてクラトスの顔をじっとのぞきこんでいる。 クラトスの顔にかかる雨をしのごうとしているのだろうが、 薄い布はその役目を果たさず、既にずぶぬれになったアンナの髪や体を 伝った雨水が、後から後からクラトスの顔へと落ちた。
「・・・・・・・構うな。 雨にぬれるのも一興だ」
クラトスが腕を伸ばして制すると、アンナは、何かにつかれた ように息をのんだ。
「・・・・・・・・・・おまえは、雨が嫌いなのか?」
クラトスが宙に向かってそうたずねると、アンナは、 しばらく口を閉ざしてから、ぽつり、と応えた。
「・・・・・・・・わたしがディザイアンにつかまった時・・・・・そして、大切な家族を 失った時・・・・・・・・いつも雨が降っていました・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・そうか・・・・・・・・・・・・・・・」
そう言って、クラトスは、ふっと鼻で笑った。
「・・・・・・雨は、大地に生きる全ての物を育む命の源だ。 自分の不幸と結びつけて忌み嫌うのは勝手だが、おまえらしくない 考えだな。足元の草は何と言っている?」
それは、クラトスの単なる思いつきから出た言葉だった。 どんなきっかけでも良いから先につながって欲しい。 そんな気持ちから漏れた苦肉の策だった。
しかし、アンナは素直に 目を閉じると、かすかに首をかしげて、静かに耳をそばだてた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
あ・・・・・。小さな声を上げたアンナの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。 アンナは両手で顔を覆い、声を上げて泣いた。クラトスは静かに起き上がると、 アンナの肩を寄せて胸の内へ招き入れた。
「ごめんなさい・・・・・ごめんなさい・・・・・・・・!」
アンナは、何度も何度もそう言って泣いた。誰にわびているのか、 何を悔やんでいるのか・・・・・クラトスには分からなかったが、 彼女の中で何かが変わったことだけは理解できた。
「今は、泣きたいだけ泣くがいい・・・・・目をさめせば、すべては夢だ・・・・・・・・・・」
クラトスは、アンナの頭を抱いて優しくそう言った。
こくり。
アンナが小さくうなづいた。すると、次の瞬間、さあっと雨が止んで雲間が晴れ、 すがすがしい風が二人の体を通り抜けた。クラトスが視線を上げると、 空は再び満天の星でいっぱいになっていた。
アンナは、クラトスの胸に顔をうずめたまま、申し訳なさそうに言った。
「ええと・・・・・・その・・・・・クラトスさま・・・・・・・・・・?」
「クラトスでよい。・・・・・なんだ?」
なんて他人行儀な物言いなのか。気分を害したクラトスが憮然(ぶぜん)と返事すると、ああ、良かったというアンナの吐息が聞こえた。
良かったと言いたいのはこっちだ。クラトスは余程そう言ってやろうかと思ったが、 アンナは、大きな目をいっぱいに見開いてクラトスをしげしげと見上げると、まゆをしかめたり、目を細めたりした。
「・・・・・・おまえは、百面相を見せるために私を呼んだのか?」
「あっ、いいえ・・・・・・・ごめんなさい!」
急いで身を引いたアンナは、真っ赤に染まったほほを両手で覆って説明した。
「あの・・・・・思い出そうと思って・・・・・あなたを・・・・・・・・・」
「その様子だと、思い出せんのだな」
「・・・・・・・・・・・・すみません・・・・・・・・・」
アンナは素直にうなづいて、小さな身体を一層ちぢめた。
クラトスは、その様子から、あることに思い至った。
(・・・・・もしや、ここが、アンナの記憶の世界だとすれば・・・・・・・)
ここにいるアンナは、人間牧場に捕らえられ、脱走もかなわず、 絶望の末に死を望んでいる。もし、これが、彼女の意思で現実から 切り離されてしまった記憶なのだとしたら、アンナがクラトスを 知らないのは当然だ。二人は、まだ出会っていないのだから。
しかし、断片とはいえ、消せない記憶に縛られるということは・・・・・・・・
(・・・・・生きながらの死・・・・・・・・・・か・・・・・・)
クラトスは戦慄(せんりつ)した。アンナは、自らの記憶に囚われたまま、 そこに封じられた苦に取りつかれているのだ。
では、どうすれば、彼女を助けてやれるのか?
(・・・・・切り離された過去を肯定し、現実に光を見出すことが 出来れば、あるいは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
じわり、と、クラトスの背に汗がにじむ。
そのようなことが、自分に出来るのだろうか。
存在すら忘れられている自分に・・・・・・・・・?
クラトスが考えあぐねていると、その様子をじっと見ていたアンナが、 おずおずと口を開いた。
「・・・・・・・・あの・・・・・・クラトスさま・・・・・・・・あ、いえ、クラトスは・・・・・ どこの星から来たのですか?」
「なんだと・・・・・?」
突拍子もない質問に面食らったクラトスが顔をしかめる。アンナは、困ったようにチラチラと足元を見ながら言った。
「だって・・・・・あなたは、お空を飛べるし・・・・・少しも私をこわがらないし・・・・・それに、あなたほどステキな人は、今まで見たことがないから・・・・・・・・・もしかして、星の王子さまなのかなって・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・残念ながら違う」
クラトスは真面目な顔をして言い、口の端を上げた。
「私はただの人間で、おまえの連れだ。偶然、おまえの夢に迷いこんでしまったが、 帰り方が分からなくて往生している」
「えっ・・・・」
小さな声を上げたアンナは、更に真っ赤になると、自分を見つめるクラトスの視線から逃れようと、ローブのフードを下げて顔を隠した。
「そんな・・・・・・・わたし・・・・・・・・・こまったわ・・・・・・・・・」
どうしよう。何度もそうつぶやいて、アンナは身を縮めた。
その言動が理解できないクラトスは、まゆをしかめて言った。
「私たちは、連れ立ってずいぶんになる。今さら困ることはあるまい」
「今さら・・・・・・・・・」
アンナは、ローブの下で声を震わせた。
「では・・・・・あなたは、知っているのですか?・・・・・わたしのことを・・・・・ 何もかも・・・・・・・・・・?」
それは、体に埋めこまれた悪魔の種を言い、傷ついた身と心を指すのだろう。 クラトスは、ゆっくりと息を吸って力強くうなづいた。
「ああ。・・・・・しかし、私の気持ちに、偽りも変化もない。私は、生涯をかけて、おまえを護ると約束する」
「わたしを・・・・・・・・護る・・・・・・・・・・・・」
銀色に輝くローブの下で、光るしずくが きらりと落ちた。
「そうだ。 私は約束する。アンナ・・・・・おまえを護ると」
そう言って優しく頭をなでてやると、瞳をのぞかせたアンナが困ったように首をかしげた。
「・・・・・なぜ、わたしなんですか?」
「それは・・・・・・・・・・・・・・・」
クラトスは、出来るだけ身を沈め、アンナと同じ位置まで視線を下げると、茶色の瞳を静かにのぞいた。アンナのうるんだ瞳は、一挙一動を何ひとつもらすまいとするように 真摯(しんし)にクラトスをとらえている。
「・・・・・・・・・それは?」
アンナが、そっと手をのばしてクラトスのひたいに触れた。 細い指が輪郭をなぞり、風に揺らぐ髪に触れ、それから、ほほ、あご、 首筋を通って、肩に触れる・・・・・それは、まるで、目の前にある存在が 現実であって欲しいと願い、確かめるかのように・・・・・・・
クラトスは、たまらずアンナを抱きしめた。
「アンナ・・・・・おまえは、私の光なのだ・・・・・・・・・・!」
だから
早く、目を覚ましてくれ・・・・・・
「・・・・・・・・こまりました」
アンナは、クラトスの胸の中でうっとりとため息をついた。
「こんなステキな夢なら、さめないで欲しいのに・・・・・・」
そう言って、アンナは、クラトスの胸に頭を押しつけた。
「・・・・・クラトスさま・・・・・約束していただけますか?・・・・・わたしが目をさませば、側にいると ・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・ああ。無論だ」
「では、誓いをたてましょう」
アンナは意を決した様子でそう言うと、自らの衣服に手を伸ばして胸元をはだけようとした。突然の出来事に驚いたクラトスは、思わずアンナの手を払いのけてしまった。
「な、何をする!!」
「何って、誓約の儀式を・・・・・・・・・・・・・」
しまった。クラトスが後悔しても遅かった。
誓約の儀式。果たすべき約束を言霊に封じて互いの心臓に刻む。そうすれば、約束は必ず果たされる。もし、現世で達成されなくても、その約束は来世へと引き継がれるのだ。
遠い昔、互いの胸にナイフで傷を入れ、その血を杯で受けたことに始まる 誓約の儀式は、時代を経て様式が変わり、今では、約束事を声にした口で 相手の胸元、心臓の上にくちびるをかざすだけに簡素化されていた。
古くから伝わるこの儀式をクラトスが知らないわけではなかった。 ただ、恥じらいもないアンナの挙動に動転し、取り乱しただけだ。
「馬鹿な真似はよせ。誓約の儀式は、着物の上からで良いのだ!」
クラトスは乱暴にそう言って自らを落ち着けようとしたが、アンナは、きょとんと 目を丸くしてクラトスを見ていた。
そして、アンナは笑った。大輪の花が咲きこぼれるように。 今か今かと待ち望んだ朝日が、野山に一斉に射すように。
そこにいるのは、懐かしい、いつものアンナだった。
アンナは、くすくすと笑いながら、どこかいたずらっぽい目をして言った。
「クラトスさま? あなたは、わたしの全てを知っていると言いませんでした? それにしてはずいぶんな反応ですね。もしかしてあなたは、昔語りに出てくる 騎士様のように、わたしを、ただ護っているだけ?」
痛いところをつかれたクラトスは、思わず反撃に出てしまった。
「わ、私が言ったのは形而上の話だ!それに、私は臆しているのではない。 ああいった事は、互いの気持ちを慮って(おもんばかって)だな・・・・・ 要は、吉日を待つべきなのだ!」
「そして、いつになってもその日は来ない」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
相変わらず達者な口だ。舌を巻いたクラトスは、降参して肩を落とした。
「ごめんなさい。言い過ぎました・・・・・・・」
アンナはあわてて頭を下げると、少しの間、何かを考えるように黙りこみ、 自らを励ますように小さくうなづいて、きらきらと輝く瞳を上げた。
「・・・・・・では、私も誓います。そうすれば、今の無礼を許してくれますか?」
「・・・・・・・・・?」
クラトスが出来るだけ顔を見られないようにうつむいて見ると、 アンナはクラトスの手を取り、愛しげに細い指をからませて自らのほほに当てた。
「・・・・・わたし・・・・アンナ・アーヴィングは、二度と、あなたを忘れません。今、この時から・・・・・・・・・・・・・・・・・・・クラトス・・・・・・!」
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アンナと父様-長いお話『月夜の闇の雨の詩』 |